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趙玉祥 老師

趙玉祥老師 略歴

 1943年7月、遼寧省法庫県小六家子村に生まれる。幼い頃は体が弱く、病気がちで、学校に通うこともままならなかった。

 9歳の時、ひどい吐血をし、ハルピンの病院に行く事になった。そこで療養に専念したが、当時診療したハルピン医科大学教授には 「この子は成人できないだろう」と言われていた。

 学校にも行けず、無為の日々を送っていた頃、藁にもすがる思いで近所の道廟に通うのが習慣となった。そこには色々な神仏が祭られ、 各地から道士たちが集まっていた。彼らには、気功や武術を練る者も多かった。 そこの道長が目をかけてくれ、気功や拳術を教えてくれた。道長は様々なことを教えてくれて、気が分かってくるようになると、 日毎に体が軽くなり爽快になっていった。気づくと12歳の頃には、まわりの子供より健康になっていた。 そして武術により生まれ変わったと実感し、人生をかける価値のあるものだと思うようになった。

 その後、14歳になると工場等で働きながら、余っている時間を錬功時間に充てた。最初はハルピン市第十五武術館で大洪拳などの 少林拳を学んだ。時には寝食も忘れて武術に没頭し、太平公園で苦錬を積むのが日課となった。そんな姿を見て、権煥章老師が声をかけた。 権煥章は夫妻で武術を練り、太極拳を得意としていた。夫妻は88式太極拳を伝授した。

 1962年になり、権煥章は高齢のため自分の命があとわずかであることを知ると、当時ハルピンで名を馳せていた形意拳第三代伝人、王喜亮老師に 紹介し後事を託した。 この時より王喜亮の徒となり、その門下で形意拳、形意剣、推手、太極拳、八卦掌等の各種武術器械を学んだ。王喜亮は三十年に及ぶ教武の後、 深く期待して全伝を授けた。

 1978年より黒竜江省などの武術比賽に続けて参加し、太極拳及び太極拳推手で優勝を勝ち取っている。この後、その武術への研鑽に対して 雄獅奨が中華人民共和国体育運動委員会より贈られた。

 1981年から1986年まで太平体育学校において教師を務めた際には、毎年優秀教師として表彰され、教えていた教室は幾度も 優秀教室として選ばれている。中国の国家から、有用な武術の人材として高く評価され、民間より国家級の人材として武術事業に迎え 入れられた。

 王喜亮老師の下で自らの練武に一定の成果をあげると、更なる技芸の完成を求めて多くの名師を探訪した。 しかし当時は文化大革命の時期であり、中国国内は騒乱とした状況だった。武術は封建的な制度を引きずっている文化として 批判されていた。そのことに心を深く痛め、武術界の友人達と力を合わせて、迫害されている老師達の生活を助けた。 その老拳師達の中に、著名な蟷螂拳宗師、単香陵老師がいた。その温情に対して、単香陵老師からは、馬猴蟷螂拳の一路と二路、いわゆる 短捶と双封を伝授された。趙老師は今でも教武の恩を忘れず、単香陵老師の戒めを堅く守り続けている。

 70年代に入ると、続いて農民拳師であった張広禄老師につき、蟷螂八卦掌、点穴法及び器械を学んだ。80年代には王喜亮老師の師兄弟である 李修政老師と劉希帽老師を訪ねて行き、形意拳の研究を深めた。また、同門先輩であるハルピンの著名な女性老拳師、候孝賢老師にも形意拳推手及び対打を学んだ。この後には、何福生老師、沙国政老師を歴訪し河北形意拳と八卦掌を学んでいる。

 中国において、育て上げた学生達は着実に力を付け、様々な大会で優秀な成績を収めた。自身は選手としての参加からは退き、 役員となり市省全国級の大会で審判員、副審判長、総審判長などを歴任するようになった。1987年には、深セン市で開催された第一回国際武術教練員学習班に参加し、形意拳と太極拳の国際教練員免状を受けた。この時の陳式太極拳の教師は太極拳名師、馮志強老師であり、老師から48式陳式太極拳を学んだ。さらには、自ら学んできた武術技芸の理論と実践を結びつける為に、北京体育学院武術系で学び優秀な成績を収めた。

 1987年、日本人残留孤児であった夫人の帰国と共に来日し、居を定めた。この時、四十余歳、言葉の喋れない異国の土地での慣れない生活は苦しく、多忙を究めた。しかしそのような生活の中でも、祖国の情、師友の恩は忘れ難く、特に幼い頃自分の命を救ってくれた中国武術への感謝の念は、常に心から離れなかった。日本において中国武術を発揚拡大することこそ、それらに対する最高の恩返しだと考え、 各所で武術の教授を始めた。最初の頃は日本語を聞き取ることも話すことも出来ず、筆談と拳勢を示すことのみで教武を進めた。 現在では日本語も習得した。

 今や来日して30年が経ち、教室は十数か所に増え、育てた学員は千名近い。その中の何名かの学員は、国際的な伝統武術観摩大会で優秀な成績を上げている。

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